第31回 平成20年6月3日 宝福寺にて座禅

 以前に紹介しました雪舟さんの「涙で書いた鼠の絵」で有名な宝福寺で座禅を体験しました。

サンロードの企画「宝福寺で座禅体験ツアー」に便乗した次第です。

 宝福寺は臨済宗の東福寺(京都)が本山であり、檀家を持たない修行の為のお寺さんです。

紅葉の時期には度々、訪れるのですが緑が眩しい時期の訪問は初めてであり中々に清々しい気持ちで山門をくぐりました。方丈にて出迎えられ、禅堂へと向かいます。

 禅堂に入るときは一礼して左足より踏み込んだ後、合掌。両サイドに20組程度の小さな布団と座布団が整然と並べられており、草履を揃えた後、座布団を二つに折り尻の下に敷く。あぐらスタイルにて両足首を太ももの上にと副住職がおっしゃいましたが「イテテ、イテテ」で片足のみで許して貰う。

両手は手のひらを上にして左手を上側に半月を作るように親指の先を軽く、くっ付け下腹に引き寄せる。

 拍子木が打たれ、鐘が「チ―ン」でスタートです。背筋を伸ばし、あごを引き、目は軽く閉じて、自分より1メートル先の地面を見る感じで・・・

20分間「無の境地」に入れるか?

「テッペン カケタカ テッペン カケタカ」ほととぎすの鳴き声。「こちらの方丈は雪舟さんが涙でネズミの絵・・・」バスガイドさんの声、まる聞こえデス。

副住職さんが「ゆっくりと1から10までを数えてください」と御指導は受けたのですが中々集中出来ません。

その内、お腹が鳴ったらどうしよう、オナラが出たら皆が笑うだろうなあーと雑念のかたまり状態でした。

 しかし、どうでしょう、肩の力を抜き「ややリラックス状態」を掴めた感じがしたら急に楽になったようです。数を数えるのも呼吸とリズムが合って来た様で快感?

「チーン」20分経ちました。10分の休憩です。足を伸ばし、ほぐします。

この間、色々な話を聞きました。修行は朝3時に起きて、座禅。朝食は麦のお粥に出汁の無い味噌汁、香の物。昼ごはんと夕食は一度に作るのでメニューは一緒。一日の内、自分の為の時間は一時間程度しか無い事などなど。夜も座禅。約3年程度修行を積んで何とか掴めるかな?と言われた。

 さあ、後半の20分スタートです。相変わらず色々な音が聞こえますが数字は前半よりユックリと数えられる気がします。

「いっぺん、あの棒で叩いて貰おう」副住職が私の前に近づかれたとき「合掌」

左手を前に付き、右手は左手の脇に入れ右肩を差し出す感じで待つ。「パーン、パン」

「パーン、パン」「痛いでござる。(心の叫び)」

左肩は右手を付いて左手を右手の脇に。

後半の部は意外に早く20分経過。禅堂を退出する時は合掌一礼の後、右足より退出。

 その後、方丈の内部を拝観。(日常は拝観出来ませんよ。)この方丈は「備中兵乱」にて消失の後、江戸時代に幕府の後援を得て再建されたそうです。屋根瓦に「三つ葉葵」の紋を見ることが出来ます。

 今回は貴重な体験をしました。これを読まれて興味が湧きましたらサンロードにお電話ください。まだ予約出来るようですよ。

第30回 平成20年5月18日 山中 鹿之助

 先日「名将 山中鹿之助」南原幹雄著を読んだ。

以前、備中松山城を取り上げましたが高梁の町の入り口に「山中鹿之助の墓」という標識を見つけており、「なんで、山中鹿之助?」という疑問が残っていたのです。

小説を読んで解りました。毛利軍に三度の戦いを挑み、ことごとく破れ「敗軍の将」として毛利輝元に謁見を請うべく護送の途中、この高梁川と成羽川の合流する「阿井の渡し」で毛利方に惨殺されたのです。

 訪ねた場所には立派な墓が建っていました。(不敬にあたると思い写真は撮りませんでした。)写真のように二つの川の合流地点であり、今でもゆったりと水が流れ正面の高倉山の新緑が目に眩しいほどでありました。鹿之助はこの河原でこの景色を見ていたのだと思うと、何故か無念さが伝わってきます。

 私が中学1年の頃、弁論大会に出る事になり、担当の先生が「竹ちゃん、この文面には山中鹿之助の『われに七難八苦を与えたまえ』を入れたほうがええでー」

「先生、七難八苦って何ならー?」と聞いて以来の縁があったのです。あまり意味が掴めぬまま本番に臨んだせいか弁論大会の成績は番外でした。

 歴史的な経緯は「名将 山中鹿之助」をお読みください。この小説では尼子の姫君との間に出来た山中幸元(鴻池新六)が成人し、当時の濁り酒を澄んだ清酒にする技術を開発して鴻池財閥の始祖となったとの事。その後、鴻池は毛利藩が経済的に困窮しても決して救いの手は差し伸べなかったそうな。解るよ、解る。

 

第29回  平成20年4月10日 足守

総社に来て、2年半経ったが此方に来て一番の発見は「豊臣は滅ばなかった」という事実であった。(チョとおおげさか?)

私のように自称「歴史好き」は、その当時生きていた訳でもないのに、さも聞いたように、見たように話す癖がある。歴史小説家はその代表でしょう。

 以下は史実に基づいてのお話です。


サンロードから車で15分程、岡山方面に走ると「足守町」がある。姫路2万5千石の城主であった木下家定(北の政所の兄)は関が原合戦の折、北の政所の守衛の為、京都に残り中立を保った為、1601年家康より足守にて2万5千石を与えられ立藩。家定の息子、勝俊と利房の代に跡目を巡って家康の怒りを買い、没収。


因みに、秀吉の養子となり関が原において徳川方に寝返った小早川秀秋は家定の5男。


浅野家、幕府領の後、1615年、大阪夏の陣にて利房が手柄を立てた為、再び足守を与えられ2万5千石にて再立藩。木下家13代、265年に渡り在封し明治を迎えた。

足守藩士、緒方洪庵は大阪に「適塾」を開き、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。

天然痘種痘を広めた医師としても有名。

 町に入ると、両側に古い町並みが残っている。少し歩くと「武家屋敷」、小学校の校庭の隅には「長屋門」。

小学校の隣には「陣屋跡」小藩の場合は城を築くだけの財力も無いでしょうからお屋敷が建っていたのでしょう。

その奥に「近水園(おみずえん)」がありました。小さいながらも回遊式庭園に数奇屋造りの「吟風閣」が桜の中に浮かぶ様は一幅の絵でございました。

 最後に岡山弁と名古屋弁の「みゃーみゃー」言葉に共通点があるように感じるのは、尾張出身の木下家が、ここ足守を治めた名残なのでしょうか?

金田一先生、教えてください。

第28回 平成20年3月8日 茶臼山高原

 茶臼山高原って御存知でしょうか?

関東の方々は「那須の茶臼岳」を思い浮かべるでしょうし、大阪人なら天王寺にある茶臼山(徳川家康が陣を張った場所)がピンと来るかも?

今回の茶臼山高原は愛知県と長野県境にそびえる茶臼山を中心にした高原にある休暇村のお話です。

 昨年末に「茶臼山同窓会」を3月8日にやりましょうと連絡があり心待ちにしていた次第。平成3年の6月から平成7年6月までの4年間、勤務したのであります。

 当日は名古屋の一社からバスが出ると連絡があったので指定された場所で待っていると東北からの八○さん、九州からの松△さんもやって来た。「友 遠方より来る有り。亦楽しからずや。」わしもおきゃーま(岡山)から来たんじゃけー遠方かのー?
アルバイトで来てくれていたOyamaさんが子供と一緒にやって来た。途中「香嵐渓」で休憩しながら2時間、やっと茶臼山へ到着。里には雪は無いが休暇村周辺は雪景色であった。車から降りるとブルッブルッ「寒い!」

 しかし、この景色はどうだ、はるか遠くに雪を被った南アルプスは。パチリと一枚。空と同化していますが峰々は判りますか?
続々とメンバー到着です。「おっとー民ちゃんではありませんかー」小柄でころころと素早い動きで客室清掃をしてくれた。なんと御歳84歳とか。まだ現役でやれそうです。ふし子さん、ひさこさん、ゆうこさん、いっちゃん。皆さん70歳は越えているそうですが元気、元気!

与平さん登場。多少腰が曲がりましたね。100歳を越えた両親を介護されているとか?頭脳明晰、学力優秀の年賀状は今でも楽しみに待っているのですよ。
 クマさん、家族で参加の由香ちゃん、宿直担当の村○さん、原△さん、いつまでも若くて可愛い10(トウ)年取って39歳のはるみちゃん、新婚のあやちゃん、紹介しきれませんので洩れた方はご勘弁。下は4歳から上は84歳まで総勢24名。これだけ年齢差のある「同窓会」は、めったにない(稀である)。記念写真を一枚。

 竹ちゃんへのプレゼントとかでDVDが映し出された。由香ちゃんが休暇村を辞めてテレビ関係の仕事をしていたので記念DVDを作ってくれたそうだ。その当時の写真が次から次へと映し出され、参加出来なかった面々の顔もあり「懐かしいー」
鼻の奥がむず痒くなってしまいそう。   終盤になって映し出されたワインボトルのラベルに文字が・・・

「竹ちゃん、退職おめでとう」

おい、おい、まだ私は現役じゃー。

こうやって語り尽くせぬ茶臼山の夜が更けていった。

 

第27回 平成20年2月18日 虹の松原

一年前に唐津の「いろは島」を紹介しましたが、今回は「虹の松原」をレポートします。博多の地下鉄で西唐津まで直通もありますが、今回は前原(まえばると読みます。九州では地名については「原」は「ばる」と発音している。がしかし、「島原」は「しまばら」と読むでー?)乗り換えで東唐津まで。

 JR筑肥線でコトコト進んで行くと、筑前深江を過ぎた頃から進行方向右側にマリンブルーの海が拓けて見える。2月半ばでまだまだ寒い日が続いているが、今日は春の到来を知らせてくれる日和であった。そこでディーゼル車の窓越しにパチリ。

ひねもす のたり のたりかな  なんてな気分になりそうな佐賀の海でした。

 しばらくは海沿いを走り「浜崎駅」から「東唐津駅」まで延々5キロに渡って「虹の松原」が続くのです。

今月始めに広島の宮島に行きました。「松喰い虫」の駆除に躍起になっている話を聞きましたが、ここはどうなのだろうか?所々に赤茶けている松が見えるが、目立つほどではなく、相当な駆除対策が執られているはずだ。

「年に二回、ヘリコプターで薬剤散布をします。お客様の車に薬剤が掛からぬようビニールシートを被せるのが大変な作業です。」と支配人が言われていた。

以前私がいた南伊豆でも空中散布していた事を思い出したが、今は中止になったのではないだろうか?地域住民の感情、自然保護など色々な角度から眺めねばならず「日本の松」はいずれ消滅の運命か?とも考えた「虹の松原」でした。

 あっ、「日本三大松原」って何処でしたっけー?

第26回 平成20年1月21日 岡山後楽園

 昨日の夕方から総社でも雪が降り、朝起きてビックリの雪景色。先日の名古屋出張の折、ある先輩から「竹ちゃん、1月のブログ更新されとらんよ」とお叱りを戴いた事を思い出し、身内が岡山の病院に入院したので見舞がてら「雪の後楽園」に行く事にした。

 9時に入園したが、すでに多くの「カメラ親父」が三脚を立ててあちこちでシャッターチャンスを狙っている。

「こげーな雪景色はめったに無いけーなー」と嬉しそうに話しているのが聞こえる。私のような小さなデジカメでは少々気後れしそうな立派なカメラの放列。遠慮がちにパチリ,パチリと撮りました。

 後楽園は何と、「ミシュラン旅行ガイド」で岡山県唯一の三ツ星がついているとの事。ちなみに倉敷美観地区は二つ星。最近、東京のレストランで星幾つ付いたとか付かないとか、大騒動したことがありましたが、日本は幸せな(?)国です。フランス人と日本人では味覚も感性も違いますでしょうし、余り大げさに考えない方がいいと思うのが私なりの考えです。

 雪の後楽園は始めての経験で、なかなか風情がありました。雪を被った松、歩くたびに見え隠れする岡山城。お殿様はこの様な日には茶室にて一服所望された事でしょう。

 岡山藩池田家二代藩主池田綱政公の命にて、元禄13年(1700年)に一応の完成をみたそうです。延養亭、鶴鳴館を中心に東に操山、南に岡山城を望み、広い芝生地が特徴の江戸時代を代表する名庭園です。(入園券の裏面参照)

 そうそう、日本三大庭園の一つですよね?

暦の上では「大寒」の日、正に「雪の後楽園」レポートをお届けしつつ、新年のご挨拶とさせて戴きます。今年もよろしく。

    ※国民宿舎サンロード吉備路TOPページ
     ※吉備路観光物語ページ